私は生きている・・・ ( 別れ )

 いつもは妻の手記を紹介していましたが、

実は前回が最後の手記でした。

 

放射線治療を受けてからは、体調が思わしくなく、

歌の仕事とコラムだけにして、後は家で過ごす時間が

増えていきました。

 

ハワイに移住して治療をするために準備していたE2ビザの

取得も時間がかかり、わずかな希望も叶うかどうかわからない

状況が続きました。

 

妻には「絶対に治すから」と約束はしていましたが、

はっきりとした形が見えないまま、

時間だけが無駄に過ぎていきました。

 

そして2014年1月も半ばを過ぎた頃、

担当医から告げられたのは・・・

妻の余命でした・・・

 

2009年12月18日に子宮全摘出手術をした時に悪性腫瘍が見つかり、

「子宮平滑筋肉腫」という5年以上の生存率が5%未満で、

当時の日本での治療方法が無い難病であることを知らされ、

その時も余命が数ヶ月と言われましたが、何とか4年が過ぎました。

 

妻とは必ず生存率5%未満の中に入って、

5年を過ぎる2014年12月18日には、

妻の大好きなハワイで2度目の結婚式を挙げようと約束していました。

 

ですから今回担当医から告げられた余命も、また難なくクリアできると

思ってましたが・・・

 

今回は違ってました・・・

 

妻に残された時間は・・・

5ヶ月でした・・・

 

残された時間で何ができる・・・

 

担当医に詰め寄りました・・・

普段から感情をむき出しにする事はないのですが・・・

 

今回は違いました・・・

 

狂ったように・・・

 

そして担当医は困惑した顔で、

 

「最後に奥様の大好きなハワイに連れて行ってあげてください。」

 

そう告げて、目を伏せました・・・

 

早速、仕事の調節をして、2週間の休暇を取り、

最高のホテルを予約しました。

 

妻には余命のことは告げずに、2週間、ハワイに行く事を

話すと・・・

 

そこにはいつもの笑顔と違って・・・

目にはいっぱいの涙を浮かべていました・・・

 

おそらく全てを察したのでしょう・・・

 

ハワイでは、ホテルの部屋に酸素ボンベを用意して、

いつでも苦しくなった時には、酸素吸入できるようにしての

旅行でした。

 

この時には、すでに肺に転移をしていました・・・

 

10メートルも歩くと息苦しくなり、

立ち止まって、しばらく休んではまた歩く・・・

 

そんな状態でも、妻は最後のハワイを楽しんでいました・・・

 

ほとんどは、ホテルのプールサイドに寝そべって、

日が暮れるまで、空と海、風、鳥のさえずり・・・

まるでその全てを心に刻むように・・・

 

そして2週間が過ぎ・・・

成田空港に着いたときは、自力で歩けない状態でした・・・

 

それでも最後まで涙も見せず・・・

 

笑顔でした・・・

 

 

 

今日は、これ以上書くのは無理みたいです・・・