私は生きている・・・(最愛の妻を亡くして僕は鬱になりました)

2009年 12月11日 子宮全摘出手術 

          術後の病理検査で「子宮平滑筋肉腫ステージ4」と診断

2009年 12月18日 両卵巣、体網の全摘出手術

2009年 12月末  6ヶ月間の抗がん剤治療開始

2010年 7月28日  造影剤によるアナフィラキシーショック

2010年 11月13日 PET検査の結果 肺に4カ所の転移と診断

2010年 12月19日 2度目の抗がん剤治療開始

妻の1年間の闘病の記録です。

この時、僕が出来ることは何か?

一番の希望は完治ですが、正直「本当に治るのだろうか?」と心が

折れ始めてきました。

当然、妻にはこんな弱気な気持ちを気付かれないように

明るく振る舞ってはいましたが・・・

妻には1日でも長く生きていてもらいたい。

生きている間は、楽しい事をたくさん計画して、笑顔で過ごして欲しい。

そう思い、また長い間、辛く、苦しい抗がん剤治療が始まる前に、

妻が一番喜ぶ事を提案しました。

その時の妻の手記を紹介します。

 

<嬉しい提案>

子宮、両卵巣、体網の2度にわたる全摘出手術を受けたのは、

11ヶ月前のことだった。

そして6ヶ月間の壮絶な抗がん剤治療の日々からやっと解放されて、

脱毛の髪も4~5㎝伸びてきていた矢先、僅か5ヶ月足らずでの「転移」

PET検査の時の疑惑から確信となった現実。

また抗がん剤の日々・・・イコール脱毛・・・

やっと生えてきた髪が抜け落ちていく姿が、鮮明にフィードバックしながら

脳裏を駆け回っていた。

涙を拭いながらも、この現実を必死で受け止めようとしている私であったが、

心の奥底に迫る質問を静かに連発し、葛藤している私もいた。

気持ちが混沌としていて、何を考えているのかも分からなかった。

診察室で担当医のH先生と主人との3人で、今後の治療のスケジュール等を

話し合っていた。

「化学療法の抗がん剤の準備もありますので、早くても12月初め頃の

 スタートになります。」

その言葉を遮って主人の口から出た言葉は

抗がん剤治療の前に妻をハワイに連れて行きたいのですが、大丈夫ですか?」

であった。

まだハワイから帰国して6週間足らずの日であった。

突然の言葉に私はH先生と主人のやり取りにちょっぴり口角が上がり、

いたずらっぽい目を向けながら、双方のしばしの傍観者となった。

H先生から「では、1ヶ月後ハワイから帰国してすぐにスタートしましょう。」

この許可の一言がどんなに嬉しかったことか。

消沈していた私に、主人からの景気付けに出た最高の元気が出る言葉だった。

思わず「やった~!」と叫びたい気持ちを抑えて、

「本当にいいの?」だけ聞いた。

主人は深くうなずき、H先生も微笑んでうなずいてくれた。

どんな辛く、苦しい時でも、私のメンタル特効薬は「歌とハワイ」

治療前に、来月再度ハワイに行くことができると決まった瞬間、

今まで泣いていた私が、どこ吹く風となり、満面の笑みを浮かべて

診察室を後にしたのは言うまでもない。

それから仕事のスケジュール調整をして、12月14日~19日の日程で

ハワイに出発したのであった。

ハワイの友人達は皆優しく、快く、

「お帰りなさい」と、今回も極上の笑顔で迎えてくれた。

澄み切った空気に青空・・・

もう例えようも無いほど、私に安らぎを実感させてくれるのだ。

そこにはメソメソしている私はいなかった。

いつものように両手を大きく広げて、太陽きらめく日差しのシャワーを

全身で受け止める。

そして心に誓った。

「肺への転移なんかには絶対に負けない!」

 

私は生きている・・・

 

(次回は <1日の大切さ> です)