私は生きている・・・ (最愛の妻を亡くして僕は鬱になりました)

今年2度目のハワイは、再び抗がん剤治療を受ける妻へのエールと、

ハワイに移住するための情報収集のためでした。

当時の日本の医学では、「子宮平滑筋肉腫」を完治するのは難しく、

殆どの患者さんが5年以内に亡くなります。

そのため、日本での治療を諦めて、同じ病気が完治した方が過去に

3人いたというこのハワイに全てを懸けようと決心しました。

僅か3例という、ごく少ない症例ではありますが、少しでもそこに

望みがあるのであれば、今自分ができることをやらなければ、

後悔すると思い、移住するための条件を調べ始めました。

しかし、ごく普通のサラリーマンが、ハワイに移住することは

そう簡単なことではありませんでした。

今回もしっかりとパワーチャージした妻と帰国して、

早速準備に取りかかりました。

妻には内緒にして・・・。

その当時の妻の手記を紹介します。

 

<前向きな気持ち>

心身共にハワイでパワーチャージをして、私は笑顔で元気に帰国した。

ゆっくり睡眠を取る間もなく、2010年12月19日病院に・・・

ゆっくりと魔法が解けていく瞬間・・・

日本は師走。

真冬の厳しい寒さに道行く人々は、しっかりと防寒スタイルであった。

私がこれから入院する人だとは、誰もが疑わないであろう。

小麦色に日焼けした肌は、ハワイの余韻を残していた。

コートのボタンを留めること無く、軽快な足取りで、

いつもの赤いホヌ柄のスーツケースに、昨日までの夏物の衣料から

病院グッズに入れ替えて、ガラガラと音を立て向かって行った。

どこから見ても、旅行から帰宅の途中にしか見えない出で立ちだった。

 

前回6クール受けた抗がん剤は、シスプラチン、イフォスファミド、

トキソルビシン塩酸塩、

そして今回再発しての2回目の抗がん剤は、ケムシタビン・ドケタキセル

水和物という全く違ったものだった。

「吐き気が少ないから前回よりは楽ですよ。」

という言葉だけでも、肩の力がほぐれた気持ちになった。

とにかく肺の転移を消滅させたい。

絶対に効くから頑張ろうと自分に言い聞かせ、

家族、友人の温かいエールを受けての今日であった。

24時間前は、まだハワイにいた私が病院のベッドで抗がん剤を受けている。

「再発」は辛い現実ではある。

しかし、そこには涙は無かった。

現実を受け入れ、必ず治ると信じて。

私、主人、娘・・・

みんな精神面が月日と共に鍛えられたのであろうか、

病気と向き合うことに対して、強くなったのだと実感した。

 

19時間のハワイとの時差ボケのおかげで、今日は抗がん剤を受けながら、

トロトロとよく眠れた。

ふと目覚めると「ここはワイキキビーチ!?」と錯覚をおこすほど、

まだまだハワイ時間の私であった。

時間と共に新たな痛み、血管痛が襲ってきた。

腕を温めながら、また副作用と闘う日々が始まった。

 

私は生きている・・・

 

(次回は <2度目のXmas> です)