私は生きている・・・(最愛の妻を亡くして僕は鬱になりました)

妻は1クールを9日間入院して抗がん剤治療を受け、退院後1ヶ月間は、毎週1回診察を受けに通院して、また入院というスケジュールを6クール繰り返します。

これだけ病院にいると、全ての産婦人科の先生や看護師さん、患者さんと知り合いになります。

妻も仕事をこなしながら、入退院、通院という規則的な生活に慣れていきました。

僕は妻が入院している間は、身の回りの世話や、味覚障害になっている妻が食べたい物を調達して、一日のほとんどは妻のそばにいました。

妻の病いの「子宮平滑筋肉腫」を調べれば調べるほど、「絶望」という二文字が頭から

離れないのです。

当時、日本では「子宮平滑筋肉腫」に対しての治療方法がありませんでした。

5年以上の生存率は僅か5%でした。

僕にできることは、妻のそばにいることくらいでした。

何もしてあげられない事が、こんなにも辛く、苦しいなんて・・・

しかし何度も心が折れそうになっても、いつも笑顔で決して弱音を吐かない妻に、逆に

勇気をもらっていました。

そのような日々を過ごす中、妻にとって安らげる時間ができました。

その時の妻の手記を紹介します。

 

<友情>

会話が弾み、笑い声が響いていた。

「寝ている患者さんに迷惑だから、お喋りはボリュームを落としてよ。」

人差し指でシーっとしながら、普段開けておかなければならない病室のドアを、

ニッコリしながら看護師さんが閉めに来た。消灯時間30分くらい前の21時過ぎくらい

だった。

「すみませ~ん。」と言って、また笑った。

今度は手で口を押えながら・・・。

まるで修学旅行の女子高生のようであった。

2010年3月、私は4クール目。副作用での怠さ、不眠、吐き気、節々の痛み、味覚障害

続いていたが、今回は精神的に違っていた。

同じH先生を担当医として、先月出会った2クール目の彼女と同室だったのだ。

彼女とは今回の入院まで毎日メールを交わし、お互い名前で呼び合う癌友(がんとも)

になっていた。

私は子宮平滑筋肉腫、彼女は卵巣癌。

私は9日間の化学療法で、彼女は3日間であったが、H先生の配慮で日にちを会わせてくれたのだった。

初めて話したときの彼女は、抗がん剤の副作用を恐れていたが、私と話をして気持ちが楽になったみたいで、「立ち向かう勇気が出た」と言ってくれた。

しかし、2週間後には脱毛が現実となり、癌になってしまったことに悲観的になってしまっていた。

「これからの自分は今までとは違うのだ。楽しいことなんか何ひとつ無い。何も

 かも終わったんだ。」と絶望のどん底・・・

飛び降り自殺まで考え、息子さんに止められたことなど、辛い日々を泣きながら

話してくれた。

私も2ヶ月前の自分と重なり、一緒に泣いた・・・

でも私は彼女に言った。

「いっぱい泣いて癌が治るのなら、涙が枯れるまで泣こうよ。

 でもね、病気を受け入れたら楽になるよ。

 辛い時だからと泣いていたら、余計に悲しくなるから笑って過ごそうよ。

 笑顔でいないとブスになっちゃうよ。

 辛い時こそ笑顔でいよう・・・ね!」

暫くうつむいていた彼女は、静かにうなずいてくれた。

そして2人以外は誰もいない病室で、人目を気にせず、ニット帽を脱ぎ、スキンヘッドで過ごした。

まつげの付け方とか、2つめのウイックはどんなスタイルがいいとか、たわいの無い

会話が辛い治療を和らげていた。

私は癌になって学んだことがある。

それは現実を受け入れること。

病気になった悲しみ、苦しみ、悔しさ・・・を受け入れることで前進する。

自分で変えられることは変えていく。

自分ではどうにもならないことは受け入れる。

そこにはまるで第三者になった私に、エールを送っているかのように・・・

 

私は生きている・・・

 

(次回は <ストレッチャー> です>