私は生きている・・・(最愛の妻を亡くして僕は鬱になりました)

満開の桜の下、この美しい桜を二度と見ることは出来なかったかもしれないと、余命を

告げられていたことを妻に伝えてから、また1ヶ月間の入院で、抗がん剤治療が始まりました。

抗がん剤の副作用は、日に日に妻の体力を奪っていきました。

おそらく僕が妻の立場でしたら、心は折れ、常に「死」を恐れ、毎日を不安と絶望の中、過ごしていたと思います。

ただ、妻の「絶対に治す、生きる」という精神力は、人並み外れた強いもので、本来は

僕が励ます立場なのですが、逆に妻から勇気と希望をもらっていました。

抗がん剤治療の第6クールが終わり、退院の日が近くなった頃に、少しでも希望と

目標を持って欲しくて、退院後、妻の大好きなハワイに行くことを提案しました。

妻は音大生の頃から毎年数回ハワイに行っては、ダイビングや、ショッピングを楽しんでいました。

勿論、僕の提案には目を輝かせて病人とは思えないほどの、とびっきりの笑顔になりました。

担当医からも「決して無理はしないように。」との条件付きで許可を頂きました。

その時の妻の手記を紹介します。

 

<ご褒美>

 

成田空港に向かっている。

海外旅行に行くのだから、当たり前の道のり。

しかし今回はいつもと違っていた。

病院を退院し、帰宅せずにホノルル直行であった。

この旅行は70回目以上のハワイであったが、病院から出発するのは初めての経験である。

今車内は、ハワイアンBGMをかけて、極上の笑顔をしている私がいるが、数時間前までは点滴を受けていたのだった。

毎日、つわりのように食事は受け付けず、常に船酔い状態での吐き気、不眠、怠さ、

例えようのない不安・・・

そんな闘いの中で、耐え抜いた抗がん剤治療の第6クールが終了したからであった。

両腕は何百回と刺された針の痕で、黒く黄色く変色している。

自分の腕なのに、目をそらしたくなるほであった。

そんな状況の下、お祝い旅行に向かっていた。

2009年12月11日に、子宮筋腫と診断され12㎝にもなっていた子宮全摘出手術を受けた結果、病理で悪性腫瘍と判明し、僅か1週間後の12月18日に2回目の手術・・・

今度は両卵巣、体網を摘出。

病名は「子宮平滑筋肉腫」

この癌の5年以上の生存率は僅か5%・・・

風邪すらひかず、病院には無縁だった私が、突然癌患者になったのだ。

余命2週間、年越しができるかわからないと告げられていた私が、

「おかえりなさい。」と迎えてくれるハワイに帰ってきたのだ。

自分が病人であることも忘れ、日本にいるときとは別人のように、パワフルに

足が軽快であった。

味覚障害にもなっていた私は、グワバジュースは水に感じ、大好きなコナコーヒーは

渋く苦い。

それでも以前の記憶を頼りに、私は飲んだ。

根がとても食いしん坊のおかげで、いつものホテルのビュッフェに行くと、まるで

冬眠から覚めた熊さん状態で、口に運んだ。

食べている・・・あれもこれも・・・

半年ぶりの食欲に笑顔いっぱい。

そんな私を主人は涙を浮かべながら、笑顔で応える。

6ヶ月間の入退院の繰り返しの中で頑張れたのは、この「ハワイ」という、どんな

薬よりも勝る、特効薬が待っていたからだ。

日本はちょうど6月に入り、梅雨時。

抗がん剤の副作用で1クール終了時から始まった、女性にとって致命的な脱毛。

高温多湿の日本では、数分間の外出でもウイックの中は蒸れて、大量の汗がツルツルの

頭から流れる日々。

ハワイは汗ばむこともなく、優しく爽やかな風がウイックの髪を通り抜けていく。

余命2週間と言われた私が今、ハワイに来ている。

私はワイキキビーチに行き、太陽の日差し、青空、風、波音を全身で受け止めている。

自分への「ご褒美」として、両手を広げ、目をつぶり、大きく深呼吸した。

 

私は生きている・・・

 

(次回は <歌とハワイは特効薬> です)