私は生きている・・・(最愛の妻を亡くして僕は鬱になりました)
「一番恐れていた事が起きてしまった・・・」
2009年12月11日 子宮全摘出手術、術後「子宮平滑筋肉腫」という悪性腫瘍と診断されて、余命4ヶ月を宣告され、その1週間後の12月18日に、腫瘍部分の両卵巣と体網の
全摘出手術、年末からは化学療法がスタート、まさしく「死へのカウントダウン」が
始まり、いつ容態が悪化して亡くなるか分からない恐怖を常に感じながらも、何とか
余命宣告された4ヶ月が過ぎ、ホッとしたのも束の間、2010年7月にいつものCT検査中に造影剤によるアナフィラキシーショックで一時、死を覚悟するほどの緊迫の72時間を無事に乗り切り、抗がん剤の副作用も徐々に無くなっていき、ほんの少しだけ、平穏な日々を過ごせるようになった矢先のことでした。
「転移」
妻も僕も、頭の中が真っ白になり、ただ担当医を無言で見つめていました。
その時の妻の手記を紹介します。
<長い一日>
新しい家族、チワワのアロハ(生後6ヶ月)も加わり、自然と笑顔と笑い声が増し、日常生活もアロハとのお散歩がプラスされ、より一層健康的に元気になっていく自分を
感じていた。
ハワイから帰国してからの2週間目の水曜日は、いつもの検診日だった。
そして午後からはN学園の講座が控えていた。
指導曲とお土産のチョコレートを持参し車内に・・・
主人は2009年12月の手術以降は、全ての時間を私に合わせ、今日も車で送ってもらい、診察にはいつも付き添っていてくれた。
身体の節々が痛み、階段の下りは、手すりにつかまらないとおぼつかなかったので、
ドアtoドアに感謝した。
今日もいつものように主人が隣にいた。
担当医が前回撮ったCT,レントゲン画像を指さして、暗い表情で言った。
「肺に怪しい影があります・・・」
「それって・・・転移・・・ですか?」
「そうです・・・」
一瞬にして奈落の底に突き落とされた・・・
11ヶ月前に子宮平滑筋肉腫という悪性癌を宣告され、辛い6ヶ月間の抗がん剤治療が
5月末に終了し、私の中では、このまま根治に向かっていると信じていただけに、ショックはあまりにも大きすぎた。
今回ばかりは夢であって欲しいと心から思った。
こんな精神状態のまま、1時間後には笑顔で元気いっぱいに、歌の指導をしなければならなかった。
病院からN学園までの車中、
「もう泣かないから、今だけ泣かせて・・・」と言って泣きじゃくった・・・
主人は無言で運転し、片手は私の手を握りしめていた・・・
楽しいハワイのお土産話しどころではない、重苦しい空気の中で、癌友のRちゃんは
無言で後部座席から私の肩を撫でてくれた。
車から降り、大きく深呼吸をして、仕事に向かう私に、窓を開けて
「いってらっしゃい」とシャカサインをしながら、作り笑顔で送り出したくれた主人。
足元がふらつきながらも気合いで出向いた。
私は何とか90分の指導をやりきった・・・と思う。
なぜならこの日の講座は、どのように指導したかを全く思い出せないのである。
唯一思い出せるのは、いつもならば指導終了後、ピアニストのKさんとはお互い
笑顔で「お疲れ様」だが、今日は初めて彼女から、単純なリズムとか細かいミスを
きつく指摘された。
プロとして指導するのだから、当たり前のことであっった。
しばらく沈黙して、私は涙ぐみながら、病院での経緯を話した。
Kさんは「辛かったね・・よく頑張ったね・・」と言って優しく抱きしめてくれた。
私は自分を見失っていた・・・
何も考えられなかった・・・考えたくなかった・・・
怒濤のような長い一日が終わろうとしていた・・・
私は生きている・・・
(次回は <40分> です)