私は生きている・・・(最愛の妻を亡くして僕は鬱になりました)
12月11日に子宮全摘出手術、その僅か1週間後の12月18日には、両卵巣と体網の全摘出手術を終えて、12月26日から抗がん剤の点滴が始まりました。
妻は1週間の短い間に、2度の大きな手術を受けて、体力の限界の中、抗がん剤の副作用による激しい嘔吐を繰り返し、ベッドの上でのたうち回っていました。
この時、僕だけが妻の余命2週間を聞かされていました。
「今の僕に何ができるのだろう・・・」
いくら考えても答えは出ませんでした。
何もしてあげられない自分の無力さを恨みました・・・
できるだけそばにいてあげよう・・・
そして看護婦長さんに前代未聞のお願いをしました。
もうすぐ余命2週間をむかえる12月末のことでした。
その時の妻の手記を紹介します。
<大晦日>
化学療法が始まり6日経過。
激痛は治まってきたのか、慣れたからなのか分からない日々が過ぎ、
2009年12月31日、大晦日を迎えていた。
抗がん剤投与3日目から始まった副作用。
食べてもいないのに吐くほど苦しいことはない。
体力低下している中での嘔吐。
ベッドに寝ていても常に船酔いをしている感じなのだ。
まるでエンドレスのつわりのようである。
この状況で更に不眠とも闘わなければならなかった。
体力は限界、天井を見つめてもビックリハウスにでも入っているかのように、
部屋が歪んで回転しているように感じた。
娘や友人からの励ましのメールも返信はもちろんのこと、開けることすら
ままならなかったのだ。
自分のことでいっぱいいっぱいになっていた・・・多分ではあるが、抗がん剤投与が始まった頃から、主人はずっと付き添っている・・・
しかもここは産婦人科。
夜になるとわたしの隣で簡易ベッドで休み、私の面倒を四六時中見てくれていたのだ。
普通ならば、決められた面会時間のみ入室が許される場所であった。
しかも個室がない病院だったが、3人部屋を私1人で使わせてもらっていたのだ。
普通ならば何故と疑問に思うことに頭が回らなかった。
主人が仕事に行かない事に対しても、完全看護の病院で寝泊まりする事に対しても。
それほど私は副作用と闘っていた。
この時主人は、私が年を越せるかわからない・・と宣告されていた。
残された時間で何ができるか・・・
「一緒にいる。」
ずっとそばにいることを、担当医をはじめ婦長に頼み込み、了解を得て付き添って
くれていたのだった。
そんな事とはつゆ知らず、ベッドでのたうち回る私。
後に写真を見て驚いたが、主人は2週間足らずで7キロも痩せていた。
病室にはテレビはあるが、観ていられる状況ではなかった。
病室での視聴は6時から21時。ただ大晦日だけは特別に24時まで許されていた。
主人はNHKの紅白歌合戦を観て、除夜の鐘を今年はテレビで聴こうと言って、
リモコンを押した。
イヤホンで聴かなければならなかったので、映像だけが病室に新たな光を差し込んでいた。
そんな中でも何回ナースコールを押していただろうか・・・
やがて紅白歌合戦が終わり、除夜の鐘と共に新年を迎えた。
「明けましておめでとう。今年もよろしくね。」
と家族の健康、幸せを心の中で祈りながら、お互い笑顔で挨拶したが、
主人の目からは大粒の涙が流れていた。
私は生きている・・・
(次回は <感謝> です)