私は生きている・・・(最愛の妻を亡くして僕は鬱になりました)

余命2週間と宣告され、死へのカウントダウンが始まる中、何とか年を越せたことに

少しだけ安堵したが、まだまだ危険な状態でした。

最低でも1ヶ月間は安静にしているように、担当医から指示されていたのですが、

術後2週間足らずで仕事に復帰したのには、僕だけでは無く、担当医も看護師さん達も

妻の仕事に対する責任感というか、執念には全員が驚きました。

その時の妻の手記を紹介します。

 

手記5 <感謝>

2010年1月 術後2週間足らずであるのに、N学園の講座を何とか無事にやり終えた。

しかし、すでに抗がん剤の治療が始まっていたので、例えようもないエンドレスの

痛み、吐き気、怠さ、それに加えてあまりの苦しさで眠れない。

睡眠薬を飲んでも眠れない。

身の置き所がないとは、まさにこのような状態をいうのだろう。

毎晩眠れない長い夜が、静かな病室の闇を包む。

壁の時計の針は、なかなか進まない。

私は医師や看護師さん達に「我慢しなくていいのですよ」と言われるほど我慢強く

泣きわめくこともせず、誰に対しても笑顔で接していた。

辛く悲しい顔をしている自分の顔は私自身が許せなかった。

笑顔で過ごす時間のほうが、全ての苦しみが和らぐ気がしたのだ。

こんな状況下であっても、妻として、母として、女性として輝いていたかったのだ。

しかし、今だから言えるのであるが、不眠の中、僅かに寝付いても時間は数十分しか

経っておらず一層疲れる。

いっそこのまま眠った状態で死んでいけたら楽になれるかな・・・と、日に日に

副作用がきつくなり、僅かな眠りにつく意識がもうろうとする中で思ってしまった。

それほど辛かったのだ。

私の本当の病気を知っているのは、家族と、親しい友人数人と、姉のように支えてくれるピアニストのKさんだけであった。

もちろん、受講生さん達には、私が子宮筋腫の手術を受けたと伝えていたので、たぶん絶対安静の状況だとは気が付かなかったと思う。

術後すぐなので、座っての指導をする経緯を話すと、なんと4割の受講生さんが、やはり40~50代で子宮筋腫の手術の経験者であり、みんなが優しくエールをくださり、また

母のように「無理しちゃだめよ。休んでもよかったのに。」と口々に言われ、その中でも80代のMさんが、「私は子宮癌だったけど、今はこんなに元気。先生は癌ではなくて

良かったですね。」・・・の言葉に全身が熱くなり、涙が出そうになったのを必死でこらえた。

講座では常に

「声楽は身体が楽器です。楽しく歌うことにより、健康な身体、若さが更に磨きあげら

 れます。美しいピアノ伴奏と共に、ちょっとエレガントに、そして元気に歌いましょ

 う。」と言って指導しているからである。

歌の持つ限りない力を、身をもって感じた。

病室でメイクをして、髪を整え、曲のイメージに合った洋服を着て、アクセサリーを付け、パンプスを履いた瞬間、スイッチが病人から声楽家に変身するのであった。

何もかも忘れ、仕事として楽しく、自然に、元気に打ち込める「歌」に感謝した。

 

私は生きている・・・

 

(次回は <嗚咽> です)