私は生きている・・・(最愛の妻を亡くして僕は鬱になりました)

いつもより遅い昼食を食べていたら、突然下から「ドン!」と

突き上げるような、まるでトラックにでも衝突されたような

強い衝撃の後、大きく部屋全体が揺れ始めました。

すぐに地震だと分かり、何も持たずに愛犬を抱きかかえて

震えている妻の手を引いて、室外に出ました。

自宅はマンションの7Fなので、エレベーターは使わず、

非常階段で避難しました。

いつもはおとなしい愛犬も、今日は怯えた表情で吠えていました。

階段を降りている途中も、何度か大きな揺れに襲われました。

あちらこちらで、子供の泣き叫ぶ声や、悲鳴が聞こえました。

 

2011年3月11日 東日本大震災

 

この時の妻の手記を紹介します。

 

<3・11>

2011年3月11日 14:46

 

突然、部屋全体が大きく揺れ出した。

「部屋から出るぞ!!」

主人の声で我に返り、ウイッグも付けず、私の隣にいた愛犬を

抱きかかえ、エレベーターの方へ向かった。

「そっちじゃない!こっちだ!!」

主人は私の手を強く握り、非常階段の方へ向かった。

マンションの駐車場まで降りると、近所の人達が身を寄せ合って、

目の前でゆっくりと左右に揺れているマンションや、オフィスビル

を震えながら見ていた。

 

少し揺れが弱くなってきたので様子を見ながら、

ひとまず部屋に戻ってみた。

食器棚のガラス扉の中の棚から、かろうじて落下寸前でとどまっている

カップ、グラス、お皿・・・

このまま扉を開けたら、その先の状態は明らかであった。

白地に黄緑色のモンステラとホヌ柄のカーペットは、テーブルから

落下したお味噌汁で、茶色に染みていた。

部屋中の殆どの物が動き、揺れの凄さを改めて実感した。

テレビをつけてみたが、目に飛び込んできた映像は、

理解できる範囲をはるかに超えていた。

 

東日本大震災であった。

 

東北地方太平洋沖地震と、それに伴って発生した津波・・・

その後の余震により引き起こされた大規模災害・・・

 

東京も震度5強であった。

テレビでは、ひっきりなしに緊急地震速報の非常音が流れていた。

この日を境に、生活が一変した。

被災地の方々に比べたら、交通機関がマヒし、ライフライン

不便になることぐらいは我慢できる事であった。

急いで近くのスーパーに出かけると、懐中電灯、電池は勿論、

ロウソクまで棚から消え、飲料水、お米、インスタント食品、

パン、缶詰、トイレットペーパー、ボックスティッシュまで

全て売り切れの状態だった。

ガソリンも、いつ届くかわからないスタンドに何キロもの

長蛇の車の列・・・

やっと給油できても2000円分だった。

病院まで電車を利用しようとしても、全線不通で復旧のメドが

立たないとの事だったので、車で片道15分のところを

6時間かけて大渋滞の中、検査に向かった。

病院内も節電のため薄暗く、階段には亀裂が入っていた。

そのような状況であっても、診察が受けられる私・・・

被災地の方々に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

被災者の方々の安否確認が24時間テレビから流れている。

一瞬にして家族を失ってしまった方・・・

行方不明者の人数が日ごとに増していく・・・

ご老人への薬、赤ちゃんへのミルクやおむつを求める声が

映し出されているが、私はこの中にも間違いなく、抗がん剤治療

を必要としている重篤な患者の方々、ウイッグを必要としている

同じ立場の女性のことが気がかりであった。

何故なら、そういった人達の声が映し出されていなかったからだ。

募金しかできない自分が辛かった・・・

 

私は生きている・・・

 

(次回は <それでも桜は・・・> です)