私は生きている・・・ (最愛の妻を亡くして僕は鬱になりました)

どんな病気でもそうですが、最愛の家族が目の前で苦しんでいる姿を

何もできずに、ただ見ているしか無い・・・

何もしてあげられない自分の無力さ、無念さは言葉では言い表せません。

できることなら、代ってあげたい・・・

それなりの治療方法で、それなりの時間が経てば、完治すると分かっていれば

辛くても頑張れると思います。

しかし、当時の「子宮平滑筋肉腫」という病気には、適切な抗がん剤も治療方法も

ありませんでした。

これだけ医学が発達しているのに・・・

おそらく10年後、20年後には手術も入院もせずに、簡単に治せてしまう医療技術

が出来ているのかもしれない・・・と思うと、今という時代を恨みました。

どんなに辛い治療を受けても、根治を信じて笑顔を絶やさず、常に前向きに

過ごしてきた妻にとって「転移」という現実を受け止めるのは、あまりにも残酷すぎます。

この時の妻の手記を紹介します。

 

< restart >

静穏な日々から一転して、「転移」

恐れていることが現実となった。

あの思い出したくもない壮絶な6ヶ月間の化学療法が終わって、まだ5ヶ月

足らずでの肺への転移であった。

PET検査の結果が出て、4カ所転移があることが判明した。

特殊画像で転移の場所が赤く映し出されていた。

私はただ黙って、赤く現実を突きつけられた画像をじっと見ていた。

涙が溢れ出て、赤く印された箇所が、稲妻が走っているかのように見えた。

担当医のH先生、主人との沈黙の時間が過ぎていった。

どんなに私が抵抗したところで、何も進展がないことは分かっていた。

また今回もこの現実を受け止めるしかないのだろうか・・・

そして次なる選択肢は、再発を阻止するための化学療法を受けるか否かであった。

長い話し合いの末、抗がん剤治療を受けることにした。

無駄とは分かっていても、H先生に何度も

「また髪の毛抜けるんですよね・・・?」と聞き、涙は止めども無く流れていた。    

この時私の脳裏には、やっと4~5㎝ほど伸びてきた髪の毛が、抜け落ちていく

残酷で悲しすぎる自分の姿を思い浮かべて、嗚咽していた・・・

私は、吐き気、不眠、味覚障害よりも脱毛が一番耐えがたいことであった。

初めての時は、抗がん剤の副作用をただ受け入れ、耐え抜いた6ヶ月間だった。

しかし今回は、今後の副作用の状況が鮮明に分かっているだけに、怖さすら

感じていた。

「根治どころか、転移・・・」

しかし、決して望みを失い、全てが終わったわけではない。

また、一からのスタートを切ることにより、治るのであればと・・・

憔悴していた自分に喝を入れ、現実を悲しいと受け止めず、早期発見ができて

良かったと思えるように、気持ちを切り替えて考えてみると、ほんの僅かでは

あったが、押しつぶされそうな心が、徐々にほぐれていった。

現実を受け止める勇気、決断、そして自分自身と、私に係わってくださる全ての

人を信じることの大切さを、身体が震えるほど感じていた。

今後の化学療法によるスケジュール等の話し合いが行われた。

少しでも早くの抗がん剤治療を・・・の担当医の言葉を遮って、主人の口から

出た言葉に驚いた。

 

私は生きている・・・

 

(次回は <嬉しい提案> です)