私は生きている・・・(最愛の妻を亡くして僕は鬱になりました)

いつものCT検査のはずでした。

僕はいつものように、廊下の長椅子に座り、妻を待っていました。

すると突然、多くの医師や看護師が、慌ただしく検査室に入っていきました。

その中には妻の担当医もいたのですが、何が起きたのか聞くこともできないくらいに

急いでいたので、何か嫌な予感がしました。

しばらくすると、僕の目の前をストレッチャーに乗せられた妻が運ばれて行きました。

担当医から一緒に着いてくるように言われ、走りながら、この理解出来ない事態の

説明を受けました。

それは全く予想もしていなかった、最悪の状況でした。

その時の妻の手記を紹介します。

 

<ストレッチャー>

すごい勢いでERに運ばれた私・・・

主人は医師に呼ばれている。

私は、付け替えられた点滴の効果か、意識は戻って、不気味な痛み、痒み、吐き気や頭痛は治まり、普通に呼吸を回復していた。

私は午後からのN学園の講座の心配しか頭になかった。

大変な事態が起きている事を、全く意識していなかったので、医師に対し、

「この点滴、1時間で終わらせてください・・仕事に間に合わないので・・」

と、言ったが、返答は「緊急入院です」と言われたので

「困ります。仕事に行ってから病院に戻ります」と訴えたが、聞き入れてはもらえなかった。

主人にも訴えたが、怖い形相で

「ピアニストのKさんに連絡しておくから入院しなさい」と言われたのだ。

その時やっと、私は造影剤によるアナフィラキシーショックを引き起こしたことを

知った。

72時間は要観察重病人となり、2ヶ月前まで入退院を繰り返していた婦人科病棟の

いつもの病室に移された。

ふと時計に目をやると、ちょうど講座が始まる14時になろうとしていた。

ため息が出た・・・

この6年間、一度も仕事を休むこと無く、年末の生死をかけた術後でさえも、周りの人達には、ただの子宮筋腫だったと言い切り、笑顔で講座をやりきることができたのに・・・

なぜ私は今ここにいるの・・・

今頃は、シューベルトの子守歌を受講生さん達と歌っているはずなのに・・・

と思うと、抜け殻のように意気消沈していた。

たまにテレビでスズメ蜂に刺されて、アナフィラキシーショックで死亡のニュースを

聞いた記憶はあったが、まさか何十回と検査をしてきた、いつもと同じ造影剤で自分の身に薬物アレルギーとして、突然アナフィラキシーショックを起こすとは・・・

この状況で一番恐ろしいのは死に至る可能性があること。

24時間、48時間、72時間の経過を見るので、医師や看護師が様子を伺いに、頻繁に病室に来た。

この日から、二度と造影剤を受けられない身体になった。

同じ薬で再度アレルギーを起こすと、次は命が保証されないからである。

それほどアナフィラキシーショックは危険だと言うことを知った。

受講生さんには、父が倒れたと伝えてもらい、無事、私の代わりに講座を終えて病院に駆けつけてくれたピアニストのKさんに心から感謝した。

彼女も、容態が落ち着いていた私を見て安堵してくれた。

今までの経過を話しているところに、主人がパジャマ、下着、タオル、洗面具、携帯の

充電器を、赤いホヌのキャリーバッグに入れて戻って来た。

この半年間に随分用意周到になった主人を見て、クスって笑っていた。

このお気楽な私の気持ちとは裏腹に、緊張した表情の主人がそこにいた。

主人はこの半年間に、突然3度目の私の「死の宣告」を今日受けていたのだった。

そして、いつ異変が起こるか予測不可能な、緊迫の72時間が無事経過して、笑顔で退院できた。

 

私は生きている・・・

 

(次回は <新しい家族> です>